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三度

|ノ゚ω゚|ノ 読書感想文!




 というわけで久しぶりに……と言うか数年前に初めて読んで以来一度も読み返したことのなかった、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んだのだった。
 ちなみに村上春樹の小説で読み直したことがないものは多分これだけだと思う。『アンダーグラウンド』とか『村上朝日堂』とか、小説以外のものは一度読んだきりで本棚の肥やしになっているものが幾つかあるのだけれど、小説は未読の『東京奇譚』以外、長編、中編、短編、全て何度も読み返しているので、これはちょっと珍しい。
 そういう意味で『海辺のカフカ』は私にとって特別な小説だと言えるのかもしれない。良い意味で特別なのか悪い意味で特別なのかはわからないのだけれど。改めて読み直した今でも。


 ところでこのスペースは特定の誰かの為に用意したものではない。不特定多数の誰かに向けて用意したものでもない。今までそういったことを意識せざるを得ない場所でしか自分の書いたものを公にしてこなかったので、こういう匿名性と固有性を両立させる中途半端な空間が欲しくなって、半ば気まぐれとして始めたものだ。だからこれまで徹底的な適当さで以って駄文を放り込んできたのだし、今回の文章も王様の耳はロバの耳程度の意味合いしかない。少なくとも自分の心積もりというのはそういうものだと……思いたいだけななんだけどね、ほんとーは。
 まあいいや。とりあえず書き記しておこう。忘れないように。
 ……ほんと、忘れるってことは結構辛いものなんだな。人間なんてものは生きていれば思い出したくもないことが増えていくものなので、忘れる能力のありがたさもわかるのだけれど、かといって忘れたくないものまで失われていくのはなー、とか欲張りなことをぼやきたい。
 ぼやいたところで話を戻す。言い訳めいた装飾はもーいーや。自重しなさい。自嘲じゃなくて。



 で、『海辺のカフカ』なのでした。
 いまいち信用のおけない自らの記憶によると、たしか初読の際に感じた印象は「あー、なんか今までの作品のパッチワークっぽいなあ。しかも比喩の精度が低いし、展開にも切れ味がない。おまけに下手に時代性取り入れようとして目茶目茶寒くなってるっぽー。今時どこの青年が『俺っち』とか言いますかね。あれか? 春樹の中のブルーカラーに属する若者像って古代で止まってるのか? そもそも主人公の少年が嘘くせー。こんな情動の幅が狭い十五歳がどんな体験したって面白くもなんともないでしょ。ナカタさんのキャラも狙い過ぎてて不快だし、これまで散々読み返してきたけれど、もー春樹の小説を楽しむの無理なのかな」ってな感じでかなーりずたぼろでした。……もちろんこれは作品に対する客観的な評価じゃなくて、自分と村上春樹の小説との関係性の問題です(こんな過疎ブログに目を通してる熱狂的な春樹信者とかいないと思うのでいちいちこんなこと書く必要はないのだけれど)。

 そんなわけで二度と読み返すことなく放置していた『海辺のカフカ』だったのだけれど、一~二年に一度、時たま思い出したように春樹の小説を読み返す習慣は消えなかったわけで、しかもほとんどの作品は今読んでもやはり思うところが多く、要するに楽しめたのだからあら不思議。こーなるとまるでタブーのように避けていた『海辺のカフカ』も読み返してみる気になるわけですよ。
 だがしかし。だがしかし。何故かこれだけは最初の数ページで読む気が失せるのでした。おかげで読み返そうと試みたことは数回あれど、全てが序文で挫折。今回ようやっと読むことができたのでした。理由はよくわかない。劇的に謎。とりあえず笙野頼子のおかげだと思っておこう。フヒヒヒ。


 で、再読してみても印象が変わらない部分は多々ありました。比喩のずれとか、ホシノ青年の「俺っち」に対する違和感とか、ナカタさんのキャラに対するアレルギーとか、主人公のカフカ少年に対して何も魅力を感じないとかは今回も健在です。正直娯楽作品としては相性が悪過ぎるのだと思ふ。
 ただ、最初に読んだ頃に比べると私も幾分大人になり、作者そのものに対する知識も増えているわけで、さてそうなると過去の作品群との兼ね合いや、私小説的な読み方等、文脈を楽しむことが可能になる様子。
 その辺のことを覚えている内にここに書いておこう。そうしよう。


1.方向性の転回。
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では留まったのに、今回は帰っていきました。
 これは春樹自身が河合せんせーとの対談とかなんかのインタビューとかで述べていた気がするので彼の言葉をそのまま借りると「デタッチメントからコミットメントへ」になる模様。本人は「海外居住を始めた日本人が現地で自分が日本人であることを痛感させられ、日本に対しての意識が変わる」というような「よくある話」と一緒にされたくないと言っていたのだけれど、他に何があるもんかね、とか思わなくもない。そもそも「他の人間と違うことをしたい」という主旨のことを小説でも生の言葉でも語っている人なので、その辺の言い訳めいた修辞は正直スルー。と言うか「うんうん、そういう風に見られたいのね。特別なのよね」で終了。いいさ、それぞれの主観はそれぞれお互いのものなのだから。
 うむ、こうして改めて村上春樹について語るとコンプレックス丸出しでいい感じ。『海辺のカフカ』の構成要素の一つである「エディプス・コンプレックス」に近いものがありますな。高校生の時に読む小説は重要だ。
 で、そういう少年期~青年期に熱心に読んでいた作家の一人が村上春樹なわけだけれど、『海辺のカフカ』の意図なり作意なりがそれまでの逃避方向の表現ではなく、直接的な関わり志向の表現に感じられるのが、読んでいてあまり面白くない一番の理由なのだろう。この辺は次で。


2.大人として子供に向けた語り。
 これまたどっかのインタビューで目にしたのだと思うけれど、ハイカルチャーからの引用が過剰なことについて「古典の大切さを若い人に伝えたい」みたいな主旨の発言が。うろ覚えなので違ったらあれなのだけれど。
 なんつーか、表現においても人には向き不向きがあるというか、あるいはミュージシャンや画家が作風変更した時に発生する軋轢の原因たる受け取り手側の先入観とか偏見とか固定観念のせいなのか、正直そーゆー方向の村上春樹には何も魅力を感じないらしい。少なくとも私は。
 『海辺のカフカ』の作風は、かつて「僕は誰にも借りがない」という若気の至りそのものの勘違い発言を残した人とは思えないくらいぬるい。ぬる過ぎる。ぶっちゃけて言うと。
 そーゆー方向なら村上春樹よりも格段に上手い人達が既にいるわけで、フォレスト・ガンプから引用すると「神様と仲直り」した村上春樹に魅力なんてまったくない。もちろん本人としては色々と許せなかったことが許せるようになって幸せなのだろうけれど、『海辺のカフカ』を読む限りでは満たされた状態で人の心を打つものが書けるタイプだとはとても思えない。少なくとも私には。
 この辺は前回の読書感想文でも触れたけれど、笙野頼子しゃんのほーが鋭敏だなーと思ふ。「理解されてしまった自分は何を書けばいいのだろう?」という予言を自作に忍ばせるあたり、やはりさすがなのだった。過剰な情念に振り回されて狂っているようで、片一方で冷ややかな分析視点を持っているらしい。大変そうです。

 で、こゆこと言うとあれなのだけれど、なんか大江健三郎化していくのかな、村上春樹は。ボケ老人の頭の中にはお花畑が! みたいな。裸の王様は反体制側だから面白いのであって、体制側になったら老害以外の何者でもない恐怖。
 もちろんサリンジャーを期待するのは問題だし、読者のそういう「勝手な期待」は供給者視点に立てば迷惑極まりないもの(時には表現者を死に追いやるもの)だということは実感としてわかるので、批判をする気も責めるつもりもないのだけれど、要するに寂しいのだろうなー、私は。
 うん、でもまあこれまで随分と楽しませてもらったし、慰めてももらったので、素直におめでとうと言ってあげたいのだった。TVエヴァのラストのノリで。



 さー、私は私の人生を頑張ろう。見た人が感心するくらい上手くステップを踏むのだ。
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読書感想文

|ノ゚ω゚|ノ 再び!


 というわけで読んだのだった。積んであった笙野頼子しゃんの『だいにっほん、おんたこめいわく史』をー。
 以下、感じたこと・思ったことをつらつらと。


 文章のリズム感とスピード感がすげい。所要時間一~二時間。休憩なしであっと言う間に読み終えました。フォントいじりも効果的。久しぶりに小説で声を上げて笑ってしまいました。ラスト一文のベタとも言える自虐&自嘲もそれまでの盛上げ方が卓越しているせいで理想的な笑いと脱力を生んでます。

 なんちゅーか、初期作品に比べて大幅にはっちゃけ度が上がった感じでグッド。弾けることの重要性をひしひしと痛感。やっぱあれですな、毒を吐く時は暗くなっちゃ駄目ね。被害者ぶった人間の暗い愚痴を聴くよりかは、開き直った加害者の明るい毒を聴く方が気持ち良さげ。まだまだ恨み言的な色は残っているけれど、ここまでくれば文章のリズムに乗れるのでした。

 ただ、自己解説的な後書きはどうかと思ったり思わなかったり。本人はこの小説を「わかりにくい・読みにくい」と思っているようなのだけれど、これ今の若い人にとってはむしろ「日常的なテーマ」だとゆー気がする。「見えない敵」なんかではけっしてなくて、少しでも世の中見てる&メタ視点持ってる子ならば、誰もが問題視しているものだと思ふ。むしろ初期作品の『なにもしてない』とか『居場所もなかった』で扱ってるテーマのほーが普遍性が低く、怨念も芸に昇華できておらず、せっかくのリズム感・スピード感を殺していた印象。いや、この辺は勿論読み手側の個人的な志向なり嗜好なりによるとは思うのだけれど。

 まあなんにせよ、五十代のおばさまがよくこれだけ現代の、ってかネット的、ってか2ちゃん的な文体や言い回し、ノリを吸収できたなー、と感心。アンテナ張り巡らせてますねー。伊達に引きこもり文学のパイオニアではないですな。滝本竜彦とはまた違った角度、方向、深さで切り拓いている様子。暗黒世界への開拓精神はもはや軽率な好奇心などではなく、苦しくても痛くても辛くてもそこに向かわざるを得ない業というものなのでしょう。某脂すまししゃん風に言うと。

 というわけで、二十代、三十代作家にありがちな「なんだかんだ言って奇麗に書きたがる潔癖症」を遥かに超越した露悪的かつ攻撃的な姿勢はまさにヒステリー。恨みや否定を自虐から解き放つごとに言葉は神託の領域へと近づいていくらしい。作中の比喩そのままに、彼女は巫女さんやね。穢れを持たないから、ではなくて、穢れ過ぎているからこそ神をおろせるタイプと解釈。
 ただ、個人的な怨恨が彼女の言葉から抜け落ちた時、果たしてそこに言葉を紡ぐ動機があるのだろうか? ってことがちょっと心配。もはや手垢べったりな言葉を用いれば、ルサンチマンという個人的な必然が失われた時、彼女はこれまでどおりパワフルな小説を書くことができるのかなー、と余計な心配。作中で本人もゆってたけれど。





 んー、佐藤亜紀しゃんの『小説のストラテジー』→笙野頼子しゃんの『だいにっほん、おんたこめいわく史』のコンボで、なんか色々と吹っ切れた様子。いや、なんか久しぶりに小説が楽しかったのでした。思わず感想文書きたくなるくらいに。





 ……批評? 何それ? 食べられるの? 美味しいの?

とどのつまり

|。ω ゚| y-~~ あがー。













 ……あがが?
| -ω-|y-~~ なにやら大げさなタイトルだけど、要するに現象学と心理分析(精神分析)の繋ぎ合わせとゆーテーマは面白そうだなー、という読書感想文を圧縮してみた次第。

 この場合、接続とは心理分析が取り出したもの(ないしは取り出し方)を、現象学的に基礎付けする、という意味。
 現象学本来の意図(諸学問の基礎付けという狙い)に即した試みでもあるのだし、個人的には楽しみ。馬鹿なので自分じゃ何もしないで結果待ちなのだけれどー。(同じように他人を当てにさせて貰えば、ヘーゲルの『精神現象学』における「精神」を心理分析してほしいなあ、と思ふ。要するに甘えた期待)

 いや、べつに今のままで納得できる人にとってはそんな基礎付けいらないんだろうけどね。現象学だって言葉を使って提示しちゃってるのだから、さらに基礎付けを欲する場合、言葉を分析・解析する言語学(一般言語学)とか使わなきゃいけないのだし、「基礎付け」なんてものは掘り下げていったら切りがない様子。
 そもそもこういった試みは際の際まで行けば大体の場合、循環して閉じた理論になってしまうか、解析不可能なポイントにぶちあたって意味そのものが消失しちゃうかの二択なのだし。……カント凄いよ、やっぱり。

 で、こーゆー、どこまで溯れば「納得」という「気分」を得られるのかは個人差があって当然だし、あって然るべきなので、思考停止ポイントなり納得ポイントなり、エポケーするところがきっとその人の個性であり必然であるのだろう。

 それでいいのだ。これでいいのだ。

 ……あれだけはよくないのだけれど、あれがなんであるかは私自身よくわからないのでエポケーするのだ。語りえぬものに対して人は沈黙しなければならないのだ。ドーナッツのあにゃー!

 というわけで書こう。書くのだ、小説を。

気がつくと

| -ω-|y-~~ 年が明け、平成は二十年代に突入。















 あと二つくらいは違う年号の下で生きられるのかな? どうだろ?

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