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そろそろ

| ゚ω゚|y-~~ 思索文でも放り込もうと思った。思ったので投機する。

 言葉を紡ぐこと、つまり「何かを対象化して記述すること」が「自分という主体」そして「他者という客体」にとって、さらにはその関係性、間主観性にとってどういう意味、働きを持つのかを考えてみよう。←守る気のないマニフェストの典型例




○僕達が何かを言葉にする時、そこにはどんな意志、意図が働いているのだろう?

 ここを齧りたての現象学による本質観取っぽい手法でもって考えてみる。

 僕達が自分の経験や体験、感情や感覚、知覚や知識を言葉でもって表そうとする時、そこには「形象化されたもの(イメージ)」を、より「明確化(明文化)」しようとする意図があるように思える。明確化することの理由、つまり明確化することで拡大する可能性とは、自覚の深まる可能性と他人との共有可能性ではないかと思う。それらの可能性に共通する意図は、承認なり了解なりに思える。そしてその場合の主体は自分で統一することが可能になるのではなかろーか。「自分の了承条件」として、多くの人は「他者の了承」を「含む」のだし。

 ここで整理すると、形象・心象・印象(イメージ)を明文化(言語化)する行為には、自覚の深まりと強化における可能性の拡大があり、それは自己了承への可能性へと繋がっている、になる模様。

 ……ふむ、まだ掘り下げられるっぽいのでもっとドリル。

 自己了承への可能性をさらに深く直観すると、自分の中で生じたあるイメージが確信に足り得るものかどうかを検証する行為と呼べるような気がする。んで、確信に値するか否かということを検証しようとする動機は……何になるんだろう?
 人は確信を求める本性があるだとか、確信=快で不安=不快とかまで溯っちゃうと、なんか何を考察しても快・不快に還元されてしまう気がする。

 ……んんん? これ前から引っ掛かっているのだけれど、本質観取ってどこでやめればいいのん? 突き詰めちゃうとハイデガーの死の不安からの逃避とか、深層心理学における幼児期の体験だかトラウマ(精神的外傷)だかがどうしたとか、ニーチェの力への意志とか、アトム(原子)としての二項論理になっちゃう予感がして悪寒。
 たぶん、私の理解と活用が浅い上に精度低いからなのだろうけれど、困った。困る。
 うーむ、たぶん「言語化という行為は明確化→検証→共有→確信が目的(共有動機)」とかで止めとけば良いのだろうけれど、なんかしっくり来ない様子。いや、私のやり方が間違ってるだけなのだろうけれど。

 つーわけで知るかぼけー。フッサールのばーかばーか。
















  ,,,,,,,,,,,,,,,∧,,∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
~′,,,,,,,,,,ミ,,゚Д゚彡<  フサフサだぞ、ゴルァ!!
 UU"""" U U    \_________









| -ω-|y-~~ と、ギコフッサール先生を貼ってぶん投げる。
       レッツ投げっぱなしジャーマン。













 ……いや、ここで投げたらなんかもう駄目な気がする。負けるな私。

 とりあえず「言葉を綴る行為」から自分なりに取り出してみたものについて、もうちょい思索を続けよう。溯る方向じゃなくて敷衍でもいいのだし。
 ただ、結局のところ、書くという行為について何か納得の行く確かな理由が欲しいのだという内省に辿り着くのが目に見えているのがあれなのだけれど。


 僕達は何故言葉を紡ぐのか?

 紡ぐことで何を得ようとしているのか?

 言葉を交わすことで僕達は何処にゆくことができるのだろう?


 こんな思春期旺盛で無罪モラトリアム的なテーゼを立ち上げて知恵熱出しながら大真面目に考えるのもなかなかアイロニックで愉快痛快大馬鹿くん。ほんと、中二病はぶり返すと大変なんだな。

 ……何やら既に人に見せる為の文章ではなくなってきたのだけれど、多分これ自体が明確化と自覚目的の行為なのだろうと無理矢理関連付けて脳内会議に提出。十五秒ほどのプレゼンを行ないました。行なったので承認されました。試算がまだなのですが利益を出す為の企画ではないので特に問題はない様子。最初に投機とかゆってたのは気にしない方向で。

 というわけで目的地を見失った(振りをして目を背けている)私の自問自答は続く。いや、続かなくても良いのだけれど、たまには思索のプロレスならぬプロセスをブログに放り込んでみてもいい気がする。別に何かの反応を期待しているのではなくて、いつものメモ帳に書き散らしている思索に、ブログに載せるという目的、つまり動機付けなり目的付けなりをすることで構築・展開に何らかの変化が訪れるのではないかと期待したのだけれど、思えば以前のブログでそういうことはやり尽くした感があるのでモチベーションあがらないよどうしよう困ったなあ、でも何に困っているかはよくわからないからきっと大したことではないのだろう。

 言葉を紡ぐことにしろなんにしろ、大体の行為の目的、動機って、そのスタート地点に情状性ってか気分とゆーものがある模様。その気分の言語化、明確化、自覚化をもっていったい何をしようかというかと考えればきっとそこに気持ちの良い世界を構築したいのだろうとか適当にステロタイプな言説を嵌め込むことにもいい加減飽きたよママン。

 自動書記ほど滅茶苦茶じゃないけれど、この思うままにつらつらと言葉を書き散らかす行為の痕跡を後で読み返せば自分が何処に躓いて何処をぐるぐる回っているのかがはっきりと見えそうなのだけれど読み返さないからわからない様子。ってかどうせ自覚しきった同じ答えしか出てこないのだから意味ないよ反復で強化されて余計固定されるだけなんだもん。

 やはり、自力で変容変化進化進歩できなくなった生物は何か刺激を受けなければもう一歩も動けない不退転の覚悟で一所懸命いざ鎌倉でもそこ矛盾してるよどうしようおーぱっきゃまらどぱっきゃらまどぱおぱおぱぱぱ。

 この文章を後で読み返せばきっとそこに頭の不自由で可哀想な子がいそうなのだけれどどうせ読み返しても(以下略)。






 ………………。







 …………………………。







 ……なんの話をしていたかを見失いました。








| TωT|y-~~ とりあえず筋道立てて考える癖をつけた方がいいでありますよ?


| ゚ω゚|y-~~ あ、でも筋道立てて論理的に語れないものこそ(人こそ)小説=物語(神話)という形で表すのがいいと思うんだ。論理を示したいなら論文を書けばいいわけで、論理に収められない(論理を作れない)ものは(人は)小説を(小説で)書けばいい(表せばいい)。

| -ω-|y-~~ うむ、何やら大分手前味噌とゆーか強引な力技で自己正当化を図った気がしなくもないのだけれど、飛躍する飛石的思考の閃きがきっと地球に優しくて新しい明日を生むに違いない気がしなくもないようでしない気がしなくもないかもしれない。賛成の反対!



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